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私と名人【3】

村田満さんの記憶/八木住夫

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私と名人【3】

何をかくそう英語はペラペラ!? 車の運転は…恐かった

 私は大阪に来たのが昭和40年なんです。そのときから師匠とこのお風呂にずっと入っとったんですわ。その頃私は釣りをやってなかったんです。27、28歳くらいからアユ釣りを始めたんですよね。仕事場が師匠とこのお風呂から200mくらいなんです。毎日仕事が終わったらお風呂に入っとったんですが、割と簡単にちろりん会には入れてもらいました。前の会長が10年くらいでしたかねぇ。「後は八木ちゃん、おまえがやれ」と尾崎(孝雄)さんから言われて、腕も伴わんしできんと言うたんやけど「そんなん関係ない」と(笑)。鶴の一声で会長をやることになりましてね。

八木さんはちろりん会の3代目会長で、村田さんとは昭和40年代からのお付き合い。仕事帰りの銭湯が交流の始まり

 30年くらい前ですかねぇ。師匠もバリバリの頃で有田川の東川橋の上流で解禁日に3ケタ釣りはったんですが、「もうちょっとで3ケタや!」と暗くなるまでやってたのは印象的ですね。

 日高川では松瀬やゲンヤでも3ケタ釣りやったんですが、解禁日に私と行ったときに3ケタ釣りを3回もやってるんで「八木くんと行ったらゲンがええなぁ」て言うてました。そのかわり逆もあるんですわ。大会なんかに行って師匠が負けたら帰りは針のむしろですね。「あのときになー」と家に帰るまでくやしがってますわ。

 例会では2時間の試合を4試合くらいやるわけですね。そしたら座ってるのは食事するときだけですわ。あとは日が落ちるまでやりますやん? 昔は日置川から帰ってくるいうたら8時間くらいかかりましたわ。枚方のメンバーなんかは夜の2時になった言うてましたからね。いろんなとこへ行きましたけど、釣れるならどこまでも行くという精神はすごかったですね。

 やはり日本一の人でしたから、どこへ行っても人気はすごかったですね。もうどこの川でも案内してくれる人がいて、「いらっしゃい!」という感じでした。とにかくすごい人でしたね。

 昔あった小阪の釣具店では、当時はやった10mの竿をオークションで落とすイベントがあったんですわ。20万くらいするのを安い値段から始めるんですが、3日間あって師匠が担当の日はなんぼでも高くなると私は思ってね。「よっしゃ、次なんぼ!」ってお客さんを盛り上げますから。それで別の名人が担当の日に行って10万くらいで落としたことがありますわ(笑)。11mとかもあって今では考えられへん時代でした。

 意外というか、とにかく英語が達者なんですよね。ベラベラですよ。飛行機に乗って海外に行ったとき英語もバリバリいうことは尾崎(孝雄)さんから聞いてます。あと本はものすごく好きでしたね。ためになると思った本は買って線を引いてね、「八木くん、これ読んでみ」といただいたり。

村田さんの読書量は相当なものだった。印象に残るキャッチフレーズを次々と生み出せたのも頷ける

 車の運転は下手やったんですよ(笑)。何回車を潰したかわからないくらいなんですわ。北海道でレンタカーを潰したり、(村田さんが経営する銭湯の)隣に散髪屋があるんですけど、そこの若い子の車を借りて潰したりね。(何十年もずっと乗っていた)サニーもへこんだり小さい事故はしょっちゅうなので尾崎さんとこで直してたんです。尾崎さんはトラックの修理工場やってたんですわ。

 だから私は師匠の助手席に乗せてもろたことはないです。恐い(笑)。早い話が私ら運転手で行ってましたから。(村田さんに乗せてもらっても)寝てられへんし、周りのほかの者が「横で寝とってください」と自主的にね。

村田さんのトレードマークだった日産のサニトラ(サニートラック)。長く乗れたのには理由があった

2025/05/16

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